高木俊子のきもの談義 和裁の歴史と家庭での活かし方

高木俊子のきもの談義

 【 和裁の歴史と家庭での活かし方 】

「たちぬいの道」として 女子のたしなみの第一にあげられていた裁縫は奈良朝時代には他の文化の発達に伴って裁縫の技術も大陸の影響を受けている素朴な手業の極致とも言うべき精巧な「縫の手法」は信仰の力と相まって敬虔な心構えや指先の修練が積まれている等、多分に精神的な要素が感じられ当時の縫い人が普通の仕事としてではなく信仰の力によって作り上げたのではないかとさえ思えるものが現存しているそうです。

平安朝では庶民の婦女子の仕事として受け継がれ発達しました。 江戸時代に入って華麗な小袖の発達により、その縫製技術にはより一層重点がおかれたようです。

明治から大正へかけて和服裁縫の技術は益々精巧なものへと進歩していき、神技にも等しい名人芸の技術を称賛していた様です。

戦後は専らアメリカの指導下にあつて日常生活は和洋折衷となり、きものブームも一時期はありましたが洋装が大半になり、和裁も嫁入資格から排除されました。こうして今ではきものの知識は無いのがあたりまえ、選ぶのも販売員任せ、まして仕立てに関しては何も注文をつけられないのが現状です。

そこで私はかねがね念じていたことですが、きものを媒体として家族関係を強調してみませんかと皆様に提案します。

衣生活全般についての知識や衣類の管理面の技術をも含めて製作面の習熟が不充分であれば、総合的なこれらの知識、理論も薄弱なものとなり不経済です。

今や男も厨房に立ちます。裁縫も婦女子だけの仕事ではなく折があれば男性も喜んで仲間入りし、時には主体となって、きものの製作に当ってはいかがでしょう。

私達の生活は常に新鮮で合理的でありたい、その為に美的、倫理的、経済的に検討構成し、裁縫、着用、整理、管理等、家族全員で参加してはどうでしょう。

場合によっては面倒な時もあるでしょうが、きものを文化ととらえた時それは当然の事です。つまり文化を保つにはある種の努力が要ります。

きもの離れは一時期きもの文化の継承を怠った私達大人の、ずぼらの見返りであり無責任の代償でもあります。もっと解り易く言いますと、文化は段階を追って学び受け継がれて行きます。

昨今の浴衣の色や柄から、きもの選びの初歩なのだなあと私は思っています。

つづく・・・

高木俊子きもの学院  高木俊子

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