高木俊子のきもの談義 きものとの出会い

高木俊子のきもの談義

 【 きものとの出会い 】

日本人の皮膚の一部として愛されて来た「きもの」が敗戦を境にわずか50年の間に一般の人々からすっかり遠い存在になりました。

それまでにも明治5年に大礼服が改められ洋装化はありましたが、特権階級の間だけだったようです。

「きもの」はアジアの衣服の中で、染め、織、構成等を考えましても群を抜いて素晴らしいと世界中が認めて居ります。今や何処へ行っても、殆ど着ておられる物は皆同じになりましたが、ここで世界中に「きもの」を打ち出して行きたいものだと考えます。

どうか、「きもの」に関心のある皆様、基礎的な知識や技術から「きもの」に親しみ「きもの」の機能性を広めようではありませんか。

それは一人でも多くの人が、性別年令に関係無く「きもの」を日常に着用する事から始まります。

私が和裁の道に入ったのは20才代後半です 理由は色々ありますが 其のうちの一つに、自分の30年後は60歳以上が3分の一を占めると知り、そのなかで何も出来ない老人はどんな立場になるだろう。…。と思い 何かを探し求めて居ました。それまでは洋装店を経営するつもりで、精を出していたものです。ある時、訪問着をたたみながら、「きもの」はどうして縫い上げるのかしらと思いをめぐらし和裁を始めたのがきっかけです。

その後和裁そのものよりも生地や、染め、織り、帯地に興味を覚え、本を読み産地に出かけました。でも、それらはきもの全体のごく一部でしかすぎません。どの産地でも、日本の風土に培われて来た着物地に感服し頭が下がりました。厳しい自然環境で染色に精を出して下さっているお姿を拝見していて、涙でどうすることも出来ない産地もありました。 これだけの歴史の重みのある衣服をないがしろにしてはいけないとゆう思いがつのりました。

(この頃から 洋服は好き、きものは愛しているのだと自分の中でハッキリ衣服に対する観念が決まりました。 好きと愛するは全然違います)

やはり日々の暮らしがありますので 二年目位から和裁に本腰を入れスタートから5-6年目で仕事に出来る様になりました。 和裁教室、着付教室、出張教室仕立ての下請け等です。

昭和52年1月1日髙木俊子きもの学院 サロン ド たかぎ を開設しました。お客様に直接お会いすることで、色々な経験をし知識を得ました。考えさせられる事も多くありました。1994秋、某商社の依頼で中国へ浴衣の縫製指導にまいりました。始め、自分の中で抵抗がありましたが、某社のそれまで販売していた 浴衣を拝見し、きものファンを裏切る様な仕立ての悪さにビックリ。これではいけないと行く気になりました。  リーダーは頭が良く全体の平均年齢16-7 歳だったと思います。

中国人の手先の器用さには目を見張りました。人海作戦にも驚きました。皆注意を良く聞き、正確に仕事はしてくださいました。 お蔭でよく売れたそうです。2002年2月1日、天六の現在地に移転しました。

ところで私の積年の夢は、パリで髙木俊子きもの学院 サロン・ド・たかぎ をオープン出来たらなあと実現しそうにない事を考えています。これにも種種理由がありますが、折に触れてお話しいたしましょう。

髙木俊子きもの学院  髙木俊子

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